東日本大震災救援の闘いは続く! 

電通労組各支部からの報告!


  東北全労協対策本部と一体での救援活動 大内委員長 (4/12)


    写真 冠水した町

          冠水した町


 大阪、首都圏からの支援を受けて、宮城支部では、16日からの第2次石巻救援活動が準備されています。

 4月7日深夜の「震度6」の余震(研究者によっては従来から予測された宮城沖地震では無いと言われるが)に対する皆さんからの情報返信で、家屋被害等はありつつも皆、無事が確認でき安心しました。
 未だ、余震は続くとも言われていますので、お互いに注意しておきましょう。
 この間、東北全労協対策本部との対応で、全国からの支援の皆さんと救援、支援、復興について意見交換や被災地現調に同行するなどしてきました。
 
 4月2日、3日 共生ユニオンいわて。全国一般全国協平賀議長ら4名。山谷など反貧困関係 6名

 4月9日   京都総評、繊維労働者ら3名と共に、津波被害を受けた隣接する名取の特養ホームから多くの入居者を受け入れた若林区四郎丸の特養ホーム白東苑への衣類の物資支援。

 4月10日   金澤中央全労協議長ら5名、石巻で泥だしボランティアをやってきた瑞慶覧長敏 衆院議員(沖縄)と大城秘書。

 4月12日   岩手県内を視察し糸数慶子参院議員(沖縄)来仙。


 意見交換では、今後の救援活動、ボランティア支援、震災労働相談の実施(雇用調整助成金や失業給付の特例適用の徹底や、便乗や安易な解雇などへの対応)、復興へ向けた労働側からの基本方針などを論議してきました。
 被災地現調については、仙台以南の漁業に加えて農業へも甚大な被害を受けた名取地域、仙台空港付近、名取市の避難所、ボランティアセンタなどを案内、復興へ向け、マスコミ報道では受け止められない深刻な状況を体感して、現地だけでは無く全国的問題として認識してもらえる様にしてきました。

 こうした中で、私が感じたことは、救援もボランティアも阪神淡路大震災の経験を踏まえつつも、青森から千葉まで太平洋沿岸約400K、海岸線から5Kに及ぶ広範な地域が被害にあい、壊滅的被害の地域が多数な事。
 「地震・津波、原発」という大震災でくくれない状況に対し、避難、救援から復興方針まで別物としての対策、方針が不可欠な事。

 地域の復興に向け、政府や県などの上からの方針に対して、仮に港を再生しようとしても、それぞれの地域の歴史的な成合も含めた横に繋がった復興(漁業や農業が単独で再建できる訳ではなく、ライフラインの復旧・行政・教育・医療・福祉等の復活が前提となり。漁協、農協、医師会・医療関係者、教育労働者、自治体労働者、福祉関係者等との共同の作業)でなければ、真の復興は出来ないだろう。

 既に、経団連は、今回の震災に対応できない行政体制を生み出した「平成の大改革」を更に推し進める「道州制」を東北地方の広域復興として提言し、福島原発事故が悪化しつつある中で、原発推進(経済同友会は、休止中の柏崎原発の再稼動を主張)を言い、あの竹中平蔵は「今回を契機に、例えば東北地方の農業再生に関してはTPP対応型の農業を作り、原発についても21世紀型の格段に安全基準の高い新しいタイプの原発に整備していくことが出来れば・・・・・新しい21世紀型の日本経済を作る好機にも成る」とほざいています。

 政界でも、復興大連立が中曽根らからも提言され、菅政権は「被災地復興は高台にエコタウン」等と言いながら「復興構想会議」(議長は、防衛大学校長。被災3県知事。派遣法で悪名高い清家篤慶応義塾塾長。御厨貴東大教授ら)を作ったが、結論は明確であろう。
 河北新報は、村井宮城県知事が、10日、震災復興基本方針(素案)を固めた。基本理念を「壊滅的被害から復興モデルを構築する」と宣言。大津波でも被害に遭わないまちづくりを目指して、住宅や公共施設は高所への移転を誘導する。水産業の再生には漁港の集約再編、集積拠点の再構築などを盛り込んだ。と報じました。

 一方では、人命救助、被災地救援で、陸海空の自衛隊の統合参謀体制が実践化され、米軍とも「トモダチ作戦」で合同作戦が行われ、瓦礫に埋まった3千メートル滑走路を瞬時に整備し、米軍と自衛隊の「軍事空港」と化した仙台空港を見るにつけ。「自粛」「美談」の名の下に、我慢、日本人の力、助け合い、が連日流され、異論や反論が封殺される雰囲気のテレビ、マスコミの異様な状況。

 震災復旧、救援に追われる中で、私たちも、一歩踏み出して考えていかなければならないなーと思うこの頃です。(4月12日)



      写真 破壊された町並み

          破壊された町並み


電通労組青森支部の仲間、宮城支部と石巻・東松島で活動(3/30〜4/1)

 3月30日、電通労組青森支部の仲間が駆けつけました。石巻地区に支援物資を届けるとともに、電通労組宮城支部の仲間たちとともに、東松島町での活動を担いました。

 石巻の仲間たちは、「自分たちの生活は自力で何とかできる状況になっている」ので、被害の大きい地域への支援を進めようとしています。
 東松島地域での支援にあたって、とくに土砂の除去について行政(東松島市災害ボランティアセンター)に問い合わせたところ、「住民からの要望が多くて対応しきれない」「ボランティアの人数が足りない」「ガソリンが少なくて動けない」という実態があり、ボランティア派遣について約束できない、とのこと。
 仲間たちは4月1日、食料、灯油、ガソリン、カセットコンロをはじめ物資支援とともに、生活再建の第一歩が踏み出せるよう大量の土砂の除去作業に取り組みました。


    写真 大量の土砂の除去作業

        大量の土砂の除去作業


  大阪電通合同労組・支援隊が石巻地域へ! 石巻から(3/23〜3/25)


   3月23日、大阪電通合同労組の支援隊が仙台に入りました。24日、支援隊と宮城全労協は東松島町を経て石巻市に入り、石巻全労協の組合員たちを激励し、ガソリンや灯油など地域活動に必須の支援物資を届けました。

 同夜、仙台での対策会議で意見を交換。大阪電通合同の仲間たちは、阪神淡路大震災の様々な教訓の中から、とくに次の二つを強調しました。
   避難所生活から仮設住宅への入居や居住区の移転への過程では、いわば「機械的な振り分け」ではなく、地域コミュニティのつながりを大切にする方法を見出して、被災者たちが励ましあい希望を共有する関係を作り出していくこと。
 錯綜する被災地の諸関係の中で、労働組合あるいは労働者として、その解決能力を発揮すべきであること。

<大阪電通合同労組・救援隊が来石、被災した地域の仲間を激励! (24日)>

  3・11大震災以来、水、食料、電気、通信が断たれ、ガソリン、灯油などが入らず移動手段、暖をとる手段を奪われてきた。それでも、被災した人々は避難所で、また一階が水浸しの自宅二階でがんばっている。
 地震に続く大津波から2週間が経ち、水道、電気、通信が回復しつつあり、地域住民は連日、へドロと飛散する埃と格闘しながら自らの生活を取り戻すために奮闘している。
 救援物資は避難所になかなか届かない。街のあちこちにある瓦礫の山はそのままに放置されている。
 そのような状況のなか、ガソリンと灯油を積んだ大阪電通合同労組の仲間と宮城全労協の仲間が石巻に駆けつけ、組合員たちと家族を激励した。

 郵政合同労組の組合員が住む東松島市東名(野蒜(のびる)海岸近くの地域)は、この時期は潮干狩りでにぎあう奥松島の景勝地で、海岸線をJR仙石線が走るのどかな地域である。
 大阪の仲間と国道45号線で合流し、東名地区に向かう。閑静な田園を横切り、一山を越えると状況は一変する。
 野蒜小学校周辺は、床上まで浸水した海水とヘドロでぐちゃぐちゃの家々。小学校の校庭には無数の車が流されてきたのか校舎に突き当たり重なり合ったまま止まっている。
 仙石線の踏み切りはドロに覆われ、線路は錆び上がったいた。海と繋がる運河には、流された家屋や車が無惨に沈んでいる。
 県道を走ると自衛隊による復旧工事で通行できない。途中で車を置き、仲間の自宅まで徒歩で向かう。
 東名駅は破壊され、レールは海側からの津波の力で山側にえぐられ枕木ごと垂直に立っていた。津波の力の恐ろしさを改めて感じた。「畏れよ!」である。


      写真 破壊されたJR東名駅と線路(手前には船)

          破壊されたJR東名駅と線路(手前には船)

 仙石線沿線から山側にある仲間の自宅は、床上浸水で一階は泥のなか。お連れ合いさんと必死にヘドロと格闘したのだろう、少しずつ片付けられつつあった。本人はガスコンロを買いに矢本地区(自宅から10km)へ自転車で出かけて留守であったが、お連れ合いさんは私たちの訪問に「心がぼろぼろで壊れそうになっていました。皆さんの激励に勇気をもらいました。」と感激していた。
 お互いに頑張りましょうと声がけをして別れ、定年退職して自宅で過ごす次の仲間の自宅に向かう。
 この仲間は、お連れ合いさんとともに間一髪車で津波から逃れ、現在はご子息の住むA県に避難している。
自宅は海岸の近くであるが、こちらも床上浸水で流されずに建っていた。飼い犬が二匹繋がれたままになっていた。
 大阪の仲間は、「阪神・淡路大震災の時もペットの避難について問題になった。対策が必要だね。」と語っていた。
 海岸近くを見に行くと、海岸に近い田畑は海水が引かずに留まっており、海と思わんばかりである。防潮林の松林は破壊され、瓦礫が延々と続く風景が目に刺さる。災害派遣の自衛隊員にも疲労がたまりつつあるようだ。
   大阪、宮城全労協の仲間と別れて、石巻へ戻る。途中、矢本地区に住む、こちらも床上まで浸水した郵政合同の仲間の自宅を激励訪問。仲間は、家族全員の車3台がダメになったと落胆していた。私たちの住む地域は、移動手段に車が欠かせないからだ。
 一瞬にして変貌した故郷。
この現実から出発しなければならない。私たちには、支えあう仲間がいる。この仲間たちと前を向いて歩んでいきたいと思う。
 大阪の仲間たち、ありがとう。   (3月24日)


    写真 大阪電通合同の支援隊

        大阪電通合同の支援隊


<古川から組合員が今日も激励に来石!(25日)>


   昨日の大阪電通合同労組の仲間の激励に引き続き、本日も私達の自転車やガスコンロのリクエストに応えて、支援物資等を満載して古川(*現大崎市)から組合員が来石。激励支援を受けた。
 早速、津波で車を失い、更にガソリン不足で移動手段を失った仲間や地域の方々に自転車を届けた。
 また、頂いた支援物資とガスコンロ、ボンベを東松島市の東名地区に住み、電気、水が断たれているなか自宅の二階で避難生活を続けている郵政合同労組の仲間に届けた。

 その後、あまり報道されていない鳴瀬川河口の周辺を見て回った。
 この地域には、全国一般宮城合同労組S支部の元支部長が住んでいるところである。野蒜海岸から百mのところで、家々は土台を残すのみで完璧に破壊されていた。
 インターネットの避難者名簿で情報を得て、前日まで東松島市内の避難所を探しまわって、隣町の松島町品井沼地区の避難所に町内会全員(約90人)が移ったという情報をつかみ、今日、訪ねてみた。
 しかし、本人と家族はそこにはおらず、誰も見ていないということで不安が襲った。いろいろ探してもらった結果、町内会の班長が生、死、不明者リストを作成しており、家族3名の名前があった。どこかで生きていることを確信し、帰路に着いた。
(3月25日)


    写真 残ったのは箱物だけ

        残ったのは箱物だけ


  電通労組首都圏支部の仲間から! (3/12〜3/13)


    猛烈な揺れの後に仙台平野で荒れ狂う津波を職場のテレビで見て、いてもたってもいられず、地震発生翌日の土曜日、自宅をめざしてレンタカーで出発しました。国道4号線を通って往路の仙台までの所要時間約16時間。

 東京−仙台間の一般道(高速道は緊急車両専用のため入れません)は、被害が当初思っていた程ではありませんでした。
 遮断箇所は、郡山と福島の中間部分に一箇所(土砂崩れか、橋の欠落)ありますが、迂回路が確保されています。路面損傷は、矢板−郡山間が最も多いですが(路面の隆起・陥没)徐行で通行可能な状態でした。
 その他の区間には、路面の亀裂や、橋や高架のつなぎ目の段差等が見られました。
 道路渋滞の多くは、東京から仙台までガソリンスタンド前等で起きています。ガソリン完売の看板前で150台位数珠つなぎになっている箇所を何度も見ました。営業中のスタンドでも、一回あたり10リットルか2,000円の均一給油でした。

 宮城県には早朝に入りました。仙南地区では避難所は設置されていました。屋根瓦が落ちているのが多数見えましたが、この周辺の白石川に津波の影響は見えませんでした。
 国道4号線(岩沼〜名取)は、常磐自動車道の陸側にあるためか、道路周辺に津波の影響は見えませんでした。路面状況にも津波の影響は見られません。
 仙台市太白区は電気、水道が復旧していました。家屋被害は、屋内家財が散乱しているが構造破損はないとの事でした。


    写真 瓦礫の山

           瓦礫の山


 仙台から石巻へは、78年の宮城沖地震の経験から鳴瀬川、北上川の橋の破壊による通行制限を回避するため古川地区経由で自宅に向かいました。利府、大和、大郷、鹿島台地区を経由していきましたが、道路の損傷程度で人家への被害はあまり確認できませんでした。途中のガスリンスタンドはガソリン、灯油を求める人と車の列が続いていました。

 東松島市に入るとその様相は一変しました。海岸から5Kmはある地域の田んぼは3日目でも海水が引かない状態で、道路も冠水して山側に迂回して、やっとの思いで自宅に到着したのは13時を過ぎていました。東京から18時間。自宅、家族を再会。抱きしめあって無事を確認しました。翌日から給水と買出し、避難所めぐりと肉親の安否確認が始まります。



    写真 なぎ倒された松林

           なぎ倒された松林