女川原発設置反対三町期成同盟会

元会長 阿部宗悦さんを偲ぶ





      写真 在りし日の阿部宗悦さん(12年1月仮設住宅前)

         在りし日の阿部宗悦さん(12年1月仮設住宅前)

 7月7日、「女川の宗悦さんが亡くなった」と石巻の仲間から連絡があった。最愛のお連れ合いである孝子さんに先立たれてから5ヶ月目である。3.11の大震災で女川港のそばにあった自宅と酒屋が津波で流され、女川第一小学校の前の仮設住宅での生活を余儀なくされていた。

 翌日、仮設住宅にご遺体が安置されていると聞き、弔問に伺った。87年の生涯を反原発闘争に捧げた宗悦さんは、狭い仮設住宅の一室で穏やかな姿で眠りについていた。昨年11月の女川町議選で脱原発を掲げて出馬して当選した美紀子さんは、今年に入って5ヶ月の間にご両親を失いながらも、気丈にこれからの闘いを切々と語っていた。「7.16には、東京に行って全国の人々の前に立つんだ」と宗悦さんは語っていたそうである。

 私が女川原発反対運動に参加したのは、1970年代前半ごろからの青年労働運動を通してである。当時の全電通石巻分会青年会議や全逓石巻支部青年部の仲間たちとともに、現地における集会や学習会、漁民、住民へのビラ入れ、町議会選挙や町長選挙、「原発いらない人々」の参議院選挙闘争など反対同盟の人々とともに活動してきた。

 おりしも、労働戦線の右翼的再編の流れが強まる中で、東北電力労組などは、立地地域での原発建設を推し進めるために「女川原発建設促進労組会議」を発足させ、総評系の労組へも踏み込み、労線再編を利用した原発建設の攻勢を一方で行っていた。

 宗悦さんは、その状況をよく私たちに「ダラ幹部どもが、労働運動をダメにしている。今の労働運動は信頼できない。」といつも鋭く批判していた。文字通り「ダラ幹」どもは、私たちと女川原発現地との「共同した行動」を「反組織行動」と称して、官僚統制を強め、三里塚開港阻止闘争と合間って、女川原発反対運動からの撤退を決めていくのである。

 1978年3月の三里塚開港阻止闘争が、全国の労働者や市民、住民運動、青年運動の闘いで勝利したその年の8月に、東北電力、国、宮城県一体となった女川町魚協の漁業権放棄に対する闘いは熾烈を極め、女川原発反対同盟の漁民を先頭に三里塚で勝利した宮城の青年労働者たちは漁協総会開催を阻止するピケットを張り座り込み、全力で闘ったのを昨日のように思い出す。宗悦さんは、そこでも先頭で権力と対峙していた。

 三里塚闘争や高浜入干拓反対闘争は、この年勝利的局面にあった。宗悦さんは、「三里塚のように、高浜入干拓反対のように闘わなければならない。」と山口武秀さんの闘い方をことあるごとに私たちに語っていたことが思い出される。

 1981年からの女川原発建設差止裁判が始まり、その後の核燃料輸送阻止と闘いは続いた。裁判は、敗北したもののその財産は全国の反原発闘争に引き継がれている。

 そして、2011年3月11日の大震災、大津波、原発事故の複合災害は、人間と原発とは共存できないというこれまで反原発運動の当然さが大きな犠牲を伴って実証されてしまった。甚大な事故が起きる前に止められなかった世代責任を痛感せざるを得ない。今、脱原発運動は大きく燃え上がり全国に拡大している。原発のない社会を実現する矢先の宗悦さんの死は、残念でならない。  宗悦さん、そこまできている「原発なしの社会」を私たちは必ずや実現してみせます。しっかり見守っていてくださいね。さようなら。

2012年7月
日野正美/電通労組


弔 辞  女川原発差止訴訟弁護団 鈴木宏一弁護士                          


      写真 女川原発(小屋取浜より)

         女川原発(小屋取浜より)